高校25期・比田井(近藤)愼爾さん、東京農工大学を卒業後に信州諏訪・八ヶ岳の麓にある八ヶ岳農業大学校で農業技術を習得され、以来48年間地元での農業指導、更には食品会社勤務、高等学校教員として後進の育成等、多岐にわたって活躍をされてこられました。
現在の日本の食料自給率が10%に満たない現状に、更には、世界各地の紛争地域でおこっている食糧難に憂いと危機感を抱かれており、この現状を打開する方策の一つとして、日本の農村古来の共同作業体「結い(ゆい)」という相互扶助組織の展開活用が有効との思いを強く持たれている。
今回、大泉高校卒業後の経験、そして、強い懸念を抱いている世界食糧事情について、「半世記」の形で連載寄稿していただきます。
今回はその第1回、八ヶ岳農業大学校の前身「八ヶ岳中央修練農場」卒業生たちが開拓団として満州に渡った歴史から始まります。
八ヶ岳農業大学校
八ヶ岳中央農業実践大学校 - Wikipedia
寄稿 大泉の学窓から信州へ その1
高校25期 旧姓 近藤愼爾
大泉高校を卒業後、東京農工大学農学部(府中市)、卒業後長野県諏訪郡原村 八ヶ岳中央農業実践大学校(現八ヶ岳農業大学校)で生徒として1年、職員として4年世話になりました。以後48年信州暮らしです。
以下は八ヶ岳の麓で暮らし始めて数年の頃の対話です。
お爺様:おめえだの出身は、どこでえ?
私 :日本です(第1戸籍京都、出生東京、小学校入学時札幌…と説明)
お爺様:あんたを見て、外人たあ、思わねえぜ…
私 :…農場のショオです(八ヶ岳農業大学校関係者の呼ばれ方)
お爺様:おっ!農場けえ~
長野県諏訪郡原村や、周辺地域皆さんは、私たち八ヶ岳の仲間を底々ご存知です。
隣町富士見町も多数の満州開拓者を輩出し、先の大戦敗戦後、満州富士見分村人々は全員生きて帰国しました。
やがて1970年代初期、日中国交回復となり、満州に残された残留孤児皆さんが次々と出生を明かし、身元を本国に問い合わせました。当時やけに長野県出身者が多かった事はご記憶でしょうか?身元判明に貢献したのは満州富士見分村生存者他、信州の引き揚げ者さんでした。
だから、原村のお爺様が「農場けえ」と言ったのは「あんたも満州開拓の関係者だったのか」という印象を語ったのでしょう。その気持ちに、現代オールドメディアが叫ぶ様な植民地批判、人権侵害、といった語感は無いと私は感じます。
例えば八ヶ岳中央修練農場から満州二龍山分校(八ヶ岳農業大学校開設当時の名前)に進学した開拓者は、現地の人々が「あんな所で農業ができるはずがない、馬鹿だな日本人は」と嘲る中、その不毛の地で見事に収穫してみせました。これは満州の陸軍中将が樋口季一郎(資料a)氏であった時代の実話です。だから、信州の人々による満州への思いは多様です。そこで、出身を尋ねられると、私は答えます「旧八ヶ岳中央修練農場42期生です」。さらに詳しく聞かれると、都立大泉高25期、東京農工大学農学部S53年卒、日本人の比田井愼爾です、と答えます。
つづく
資料a 樋口季一郎の遺訓 樋口隆一 勉誠出版 他

実践大学校 北側 実践大学校 南側 東京農工大農学部 正門 並木
(補足)
修練農場 - Wikipedia
寄贈品 №49 - 満蒙開拓平和記念館ページ